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社会の中で成長する

2010年も正月を過ぎた頃、当時大学2年生の自分は、A社社長からTwitterで誘われ、A社のアルバイトとして仕事を始めることになった。その時から8年が経つ。

最近、ふと昔を思い出すことがある。今と比べると、仕事を始める前の自分はあまりにも幼かった。この8年間でどれほど自分が成長したかを実感した。

これまで自分と関わってくださった皆様への感謝を込めて、ここに大学入学からの10年間を中心に、これまでの軌跡をまとめることにする。

大学入学以前

登下校中に水路に落ちることも珍しくないほど注意力散漫で、かと思えば完璧主義で、持ち前の想像力で思い描いた理想をゴールにしてしまって、上手く行かないとひとりでに傷付いてしまうような子供だった。対処能力を超える指示や状況には頭が混乱し、パニックという形で感情を爆発させることも珍しくなかった。ただ好奇心旺盛でもあり、興味を持ったことや主観的にやるべきだと思ったことにはすぐ手を出す。ただ逆に、新しいことをやるよう仕向けられた場合は不安がりなかなかやりたがらなかった。このあたりの傾向は、現在も極端さは減ったが大きくは変わっていない。

パソコンに初めて触れたのは幼児期で、10歳頃からプログラミングにも興味を持ち、Visual BasicやPerlに独学で触れていたこともあった(※1)。小学校時代から高校時代にかけては、PCスキルで先生方の手伝いをすることもあった。また、持ち前の好奇心と、わからないことは自分で調べる癖を付けていたことで、知識量豊富でもの知りなイメージを持たれていたようである。成績も座学は全体的によかった(ただ、中学2年生以降は勉強の仕方が災いし、理数系科目では成績を落とすことになった)。

一方で先生方と近い関係にあったこと、正義感が強かった(※2)こと、不器用で運動が苦手だったこと、地元の方言を話さなかったこと(※3)などからいじめの対象となることが数多くあり、特に中学時代では暴行を受けて病院に行くことも経験した(大事には至っていないが)。このようにして人間関係に対して不安を抱いたことや、いじめられっ子に近づいた人間もまたいじめの対象になる風潮もあり、中学時代以降の自分の交友関係は非常に狭いものになり、かつそのことに思い悩んでいた。不安と自己嫌悪が先行し、小学生時代からは打って変わって暗い性格になってしまっていた。しかし、長期の登校拒否・不登校は一切なかった。

地元で進学校とされる普通科高校を卒業して、一般入試で大学に合格した。

アルバイトを始める前

大学に入ってから、授業にはきちんと出ており、英語系科目やコンピュータ系の専門教育科目を中心に成績はよかった。ただし数学・物理に関しては中学2年以降で苦手意識を持ってしまったことがなおも影響してしまっており、再履修となることも珍しくなかった。

プライベートでは、実家からの通学であることもあり、特にアルバイトなどはせず、オフにはPCゲームで遊んでいることもあった。ただ、高校時代からネットワークインフラに興味を持って、自宅サーバを設置していたこともあった(※4)。

この頃は精神的には高校時代から引き続いて安定せず、何事にも積極的にはなれなかった。その一例として、2009年8月、20歳の誕生日と同時に自動車学校に入校したが、自分がきちんと運転できるかに不安を持ってしまい、両親に連れられるような形で入ることになった。しかし一度入ってしまうとその不安は消え、2009年11月に晴れて普通自動車運転免許(※5)を取得した(※6)。

アルバイトとなってから

先述の通り、2010年初にA社社長からの誘いでA社のアルバイトとなった。そこで思ったのは、自分はプログラミングのセンスは持っていたつもりであるが、仕事としてやるために必要なことは何もわかっていなかった、ということである。いま振り返るのさえも恥ずかしいような、今後も笑い話にできることはないであろうほどの、あり得ない過ちもあった。子供の手遊びや学校の授業として行うものと、仕事として行うものは違うのである。ともあれ、そのとき関わったプロダクトは無事にリリースされた。充実感は味わっていたが、一方で仕事をするという責任感にはまだまだ欠けていたと思う。

にわかに資金を手にしたことにより、金銭管理も甘くなっていた。大学で受けたTOEICの成績報奨金も手にしていたがいつの間にか消えていた。さらにその秋、所用で向かった郡山市内でキャッチセールスに遭い、持っていた現預金の大半を失ったこともあった(※7)。当時大学3年生だったため、このことによって両親に資金援助を乞うて就職活動を行うことになったが、東京方面への就職説明会へ向かう途中に郡山駅構内でA社社員に会い、「残らないの?」と言われたことで、自分は必要とされているんだなという認識に至り、地元に貢献する意味もあってA社に残る道を選ぶことになる。

仕事を始めて1年経った頃、東日本大震災が起きた。このときは電力会社勤務の父親を持つ自分は、社内連絡で疎開を主張する書き込みを見て感情を爆発させてしまう。そこから数日間は、おそらく今現在までの28年6ヶ月の人生の中で最も精神的に不安定な時期だったと思われる。父親が単身赴任先に缶詰となってしまったこともあり、社内チャットを見なくなり、余震への恐れもありひたすら泣いて過ごした。いわゆるメルトダウン(当時原子力発電所で発生していた事象とは異なる)である。

会社の営業再開と同時に出社を再開し、大学4年生の1年間は卒業研究と並行して、主に実験的な仕事をしていた。

社会人時代は、突然の東京行きから始まった

卒業論文の発表会も終わり一息つきかけた2012年2月、当時担当していた仕事をやめて、自社製作のアプリの企画と製造を命じられ、同時に研修のためとして4月から3ヶ月間東京常駐も命じられた。

地元に残るという思いに反する東京常駐、それによるそれまで経験のなかった一人暮らしへの不安、さらに今までなかった企画レベルでの仕事への不安が重なり、結果として2012年末に至るまで精神的に不安定となってしまった。4月半ばには父親が出張のため東京を訪れ、上野公園の桜を一緒に見に行ったが、このときは感情が爆発してしまい大泣きしてしまった。

精神的に不安定になる中で、ちょっとしたことへの不満を感じやすくなっていた。また、イベント参加の際には、何かアウトプットをしなくてはという謎の義務感を感じてしまった。これらが災いしてSNSの使い方に関して注意を受けるなどしてしまったが、このためなのか、この頃から衝動的に喋ったり書いたりすることは以前より少なくなった。これが精神的な成長の一歩だったと思う。

会津に戻ってから

ここまでの数多くの失敗で、「社会人としてここにいるからには役に立って信用を取り戻さないといけない」という焦りが生まれたと思う。自分で自身にプレッシャーをかける形となったことで精神的に休まらなかったが、しかしこのことが以後の成長の原動力となったように思う。ただ、住み慣れた会津に戻ったという点では、解放された部分もあった。

それまでは「端末で動くもの」を作っていたが、会津に戻ってからはWebシステムを担当することも多くなった。しかし、データベースを使うWebシステムに関する知識は全くなく(※8)、今にして思うとセキュリティ的に問題があるスクリプトをサーバに上げるなどしてしまっていた。たった5年前にこのような惨状だったところから、今となってはWebアプリ一本で頼りにされるエンジニアになったことに技術的な成長を感じるところがある。

2013年頃にあるプロジェクトを引き継いでから、本格的にPHP+MySQL環境で動くWebシステムの担当を始め、その後年々その比重が大きくなっていった。当然そのような状況に置かれてからはWebシステム関係の勉強も真剣にやるようになった。

この頃には、自分が興味のないことを押しつけられても渋るようなことは少なくなっていった。むしろそれを興味のきっかけにして学ぶ姿勢を持つようになっていった。

受託開発会社の人間としてクライアントのところに出向くことも多かったが、そのときもクライアントと問題なく接することができた。人間不信といったものは感じなくなってきたし、作ったものを引き渡す相手の存在も意識することで責任感も感じ、同時に承認欲求も満たされるようになっていた。

転機

2014年末から関わったプロジェクトは自分にとっての転機となった。このプロジェクトを機に、基本的な知識しか持っていなかったデータベースまわりやインフラまわりの知識を深くすることになった(※9)。

また、2015年4月から、毎月1回の深夜メンテナンスがあり、夜中1時頃に車で出社して、当時は夜中のうちに帰っていた。父親が転職によって車通勤となることもあり、2015年6月、ついに自分の車を手に入れた。

2016年6月末から顧客要求が厳しくなるにつれ、メンテナンスに長期化の傾向が現れるようになった。23時頃に出社して、メンテナンスが朝方に終わるかと思えば日が昇っても終わらず、帰宅するのは朝の9時頃、というのも珍しくなくなった。

自分は朝型人間で、小学生時代は21時30分までには寝ていたし、社会人になってからも通常午前1時までには必ず寝る人だったが、これによる睡眠の乱れ、さらにアラート対応などで自宅に帰っても休日になっても終わらない緊張状態が心身に影響することになってしまった。

丁度その頃、市内の別の会社から東京に派遣されていた妹がB社に転職した。幅広い知識を持つ人物を求めていたB社幹部と妹が意気投合し、妹が自分をその幹部に紹介した。その知らせを受けてから自分は迷うこと数週間、このまま実家に留まることによって良い影響はないとの考えに至り、その夏、自分はB社の門を叩いた。

関東へ移住、違うスタイルに接する

2016年10月21日にA社を去り、さいたま市中央区に移住。同年11月7日にB社に入社。

それまでいたのは主に自社・受託開発を行う会社で、今度入ったのは主にエンジニアを派遣してオンサイトで案件に従事する会社である。その最大の違いは派遣先による面接があること。受託のキャリアしかない自分は転職してすぐに面接練習をすることになった(※10)。ただ、受託時代もクライアントと直接話をしたことが何度かあったため、面接でも不思議と緊張はほとんどしなかった、つもりである。相手方には緊張しているように見えていたらしいのだが、自分の滑舌があまり良くないためだろうか(後日、「頭と口のクロックが違うタイプの人か」と言われた)。

同年12月に現場に入ってからは自分が経験したことのない大所帯の中での仕事となった(あくまで現場が大所帯なのであり、自分の関わっている仕事自体は自分一人とか少人数でやることが多い)。自社でも自分を誘ってくれた幹部と話をする機会が多く、飲み会にも積極的に参加できている。

10年前と比べると遥かに多くの人と接する中で、学生時代に感じていた人と接することに対する抵抗感は今やほとんどない。感情的にも落ち込むことはあまりなくなった。それはようやく自分を受け入れることができ、自分に自信を取り戻したからだと思う。

まとめとこれから

振り返ってみると、技術的にも精神的にも、仕事を始めたころの自分は非常に幼かったのを感じる。

自分の性格的な特徴は、よく考えるとそれを持つ人の対人スキルが通常より未熟であることが多い(※11)ものだ。今でも人並みになったとは決して思っていないし、人並みにまで到達することはないのかもしれない。ただそれでも、自分に自信を失い、そもそも人と接するということを避けてきたことを思えば、今の状態は見違えるほどに良好になったと言えるだろう。

最近、"成長に必要なのは「好奇心」と「焦り」"という記事を読んだ。一理あるなと思う。仕事を始める前の自分には好奇心はあったが、何もないところからは掘り下げようとする好奇心は生まれないし、また何に対しても「焦り」が足りていなかったのかも知れない。むしろ焦りとは似て非なる「恐れ」に支配される形で積極性を失っていた。社会人生活を通じて、「恐れ」に打ち勝ち、周囲を取り巻く状況への自分の対処能力のなさに焦ったことで、ここまで成長できたのかなと思う。

2018年になり、今年29歳になる。ウォーキングなど新たな趣味の開拓も始めた。両親の第一子として自分が生まれたとき、両親は29歳だった。まだまだその背中は遠いが、公私ともに新しいことを身につけ、人としての成長を確かなものにし、さらに、それを足がかりに人間関係を広げていくために。

脚注

※1: 成果物をWeb公開していたこともあった。しかし、あまりにも落ち着きがなさ過ぎること、またいじめのための攻撃手段としてサイト掲示板を使われたことが原因で、Webサイトの移転・リニューアルを繰り返したため、影も形も残っていない。

※2: その割には衝動的に動いて結果としてルールを無視することとなったことも数多くある。

※3: 小学生からA社勤務時代に至るまで住んでいたのは福島県会津若松市であり、両親も会津地方に実家があるが、小学校入学以前には埼玉県大宮市(現さいたま市大宮区)在住で、共通語を聞いて育っており、家でも共通語を使っていた。親戚も自分の前では共通語を使うように配慮していたようである。

※4: 2012年春に就職と東日本大震災の影響が原因で廃止している。

※5: 現在は法改正の影響で準中型運転免許(5t限定)。2018年1月現在の自分の免許証は法改正前の2015年8月に更新したものであり、次回更新の2020年までは表記上は普通免許。

※6: 余談だが5歳頃に自転車の乗り方を覚える際もほぼ同様の経過を辿っているらしい。

※7: 消費生活センターへの相談を行い、1割は取り戻すことができた。内容証明郵便なんてもう書きたくないものである。

※8: 中学生時代に作ったPerlによるWebシステムはファイルI/Oを使っていたため。

※9: これによってインフラの知識も「子供の手遊び程度」を脱したことになる。

※10: 面接をするのは、高校の自己推薦型入試(福島県立高校I期選抜)受験を試みた2005年1月以来11年10ヶ月ぶり。

※11: リンク先についてはあくまで表面的な特徴の一致を示すものであり、当該障害にあたることを必ずしも意味するものではありません。